管理人 海外へ行く
〜セネガル編〜
ある街の喧噪
エピローグ
1.帰宅後
行方不明になった荷物に財布等を入れていたため、お金はもちろん、運転免許も無い。それ故に運転免許試験場へ出向いて再発行の手続き、着替えの購入、飛行機の遅延証明書の取得などで忙しい日々が過ぎていく。また上記費用に加え、成田-名古屋間の航空券代金も回収すべく、旅行保険会社への書類を作成で手間がかかった。
そのスーツケースは香港で「降機」していたようだ。それは水曜日には成田空港に航送され、木曜日にANAの成田支店から特急宅配便で自宅に送られてきた。一時はエチオピアで盗られてしまったかも、と思っていたが、中身がすべてそのままで手元にもどってきて、とても嬉しい。さすがは日本の航空会社、全日本空輸である。あまりに嬉しくて、お礼の電話をしておいた。もちろん、電話に出た係員も「他の者にも伝えます」と嬉しそうに話していた。
さて、これらと同時進行でバイトには戻っており、いつもの日常が始まっている。非日常から現実に戻るのはあっという間だが、今回は様々な出来事があり強烈な印象が頭に残っている。そのせいだろうか、ふとした瞬間に長時間の飛行機搭乗、そこから見えたアフリカの大地、ダカールの強い日差し、喧騒などを思い出して、それにとらわれることがしばしばだった。
また、お土産を渡しに友人を訪ねると「よくそんな遠くへ行ったね」とか、あるいは「アフリカによく行ったね」等々、驚く人が多い。中には、当方の旅行の先輩でさえ「アフリカとはすごい」と驚かれることもあった程だ。もちろん、自分ではそんなことは思っておらず、ただただ「アフリカ最西端の地、ダカールを見たい」という単純な好奇心だけに誘われただけのことだ。
その好奇心に拠るだけではあるが、自分一人で旅程を計画、航空券や宿泊場所を手配し、現地ではホテルで情報やトラブルの対処法を教えてもらいながら、それらを乗り越えてきたことは揺るぎない事実である。
これは自分にとって「とても大きな何か」として心に残っている。つまり「こんなことをやってきたのだから、何とかなるんじゃあなかろうか」という、一歩引いた楽観的な気持ちになることができるようになる時を持てるようになった、ということだ。
そう考えると、今までの人生で鬱々としていたことが実は「自分の気持ちの持ちようだった」ということに気がついたのだ。これにより、就職活動にも弾みがついて、5月は3戦3勝の負けなしであった。その結果、保育園の事務員として滑り込みで就職に成功した。
2.管理人が旅で見たものは
長々と旅の出来事について記述してきたが、ここでそれらをまとめてみよう。主な内容としては、ダカールでの食事、観光地、ホテルでの生活等々が時間毎に書かれており、それらが管理人の見たものである。もちろん、それはその通りだが、実はそれだけではない。長きに渡って書いてきた記録を改めて読み返すと、そこには常に「日本と比べてどうなのか」という視点があると気がついた。
別にこれは意識したわけではなく、思うままに記載を重ねていった結果だ。こうして考えると、当方はセネガルのダカールを通して、実は日本を見ていたということになる。管理人が旅の日々で見たものとは、まさに日本であったのだ。
ダカールでの日々は、既に半年以上も前の過去となった。しかし、ポルトガルの時と同様、旅行記を書いていると、波のように盛大に、かつスイスの腕時計のように精密に、当時の記憶が蘇ってくる。そして、今日も「フライトレーダー24」のページを開いては、搭乗した航空機の動きを確認し、あの日のことを思い出している。そう、何回も書いているように「旅の記憶は一生もの」なのである。
というわけで、長々と連載してきたセネガル旅行記であるが、この辺りで終了としたい。お付き合いありがとうございました。また、次の旅でお会いしましょう。
2017年11月27日 管理人記す
完