職業訓練校修了旅行
~コウノトリに会いに行こう~
丹後半島先端の経ヶ岬灯台
朝は6時30分に起床した。カーテンを開けると、もやがかかっていてあまり天気が良くない。昨日、朝にコーヒーのサービスがあるということを聞いていたので、1階ロビーに行く。すると、コーヒーメーカーに大きなガラス製のピッチャーがのせてあり、20杯ぐらいのコーヒーが入っていた。もちろん、紙コップも用意してある。ちょっとしたことだが、なかなか良いサービスだ。
コーヒーを持って部屋に戻り、今朝はパンで朝食とする。テレビをつけて天気予報を確認すると、晴天の予報が出ていた。なんだ、霧で見通しが悪いのは朝だけか。安心してコーヒーを飲みながら、地図を見てルートをおさらいしておく。
8時にチェックアウトし、エンジン始動許可を得てTDMに火を入れる。積算計の撮影をして、準備はO.K.である。また、燃料は帰宅まで通しで飛行できる量を搭載しており、今日は給油の予定もない。
早速国道178号線、県道548号線と繋いで円山川沿いに進んでいく。太陽が昇るにつれて霧は晴れて暑くなってきたが、川の上を通る風はとても涼やかだ。いい気分で走行していると、間もなく玄武洞に到着した。
玄武洞とは、溶岩が急激に冷却された「柱状節理」が見られる所で、この辺りでは割合と有名なようだ。2010年に北海道で「根室車石」を見たことがあるが、あれもこの現象からつくられたものだ。もっとも、それ自体は残念スポットであったが。
今回はどうであろうか。「宝石・奇石・化石の博物館」駐車場にバイクを止めて、玄武洞公園へと向かう。少し階段を上がると、玄武洞が見えてきた。ただの岩と言えばそうだが、前述の車石とは違って、結構な見ごたえがある。柱状になった六角形の石が模様のように洞中に広がっている、何とも言えない光景だ。
玄武洞
この洞であるが、今は立ち入り禁止になっているが、明治時代はここから石を切り出していたと看板に解説があった。また、玄武洞の他にも、青龍同、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞があり、それぞれ名前のような見え方がするということだった。
因みに、高校で岩石の名前を覚えたと思うが、玄武岩という名前はこの玄武洞に由来するものであるとの記載もあった。そうなんだぁ、それは知らなかった。
次に青龍洞へ行ってみると、とても長~い岩が綺麗に並んでいる。確かに龍のように見えなくもないな。ここは他の4つと比べて、一番岩が美しく見える洞であると看板に記載があったが、それはそうかもしれないと思った。
青龍洞
後は順番に、白虎洞、北朱雀門、南朱雀門と見ていく。白虎洞は柱が横向きになっているのが特徴で、両朱雀門は溶岩の先端部にあたる。そのため、柱の先端が丸くなっている。
どれも自然の作り出した造形なのだが、その力というか脅威というか、そういうものを感じるものであった。
六角形の柱状の石が並ぶ
今日はこの旅の最終日なので、東へ向かいながら寄り道をしていくスタイルである。玄武洞公園を出発して、県道548号線をさらに日本海方面へ進んでいく。すると、昨日も寄り道したハチゴロウの戸島湿地が見えてきた。遠くから人口巣塔を見ると、親鳥がヒナにエサを与えているようだった。昨日はヒナしかいなかったので心配したが、親はちゃんと近くにいたわけだ。
湿地を通り過ぎて県道9号線に乗り、山間部のワインディング路を快走していく。そして二つ目の三原峠で京都府に入り、府道11号線で進んでいく。この辺りの道は1.5車線の道なので、対向車に注意する必要がある。
峠を越えると、京丹後市に入っていく。ここからは国道178号線に乗り、丹後半島の西側を北上していく。途中で府道665号線に切り替えて、海岸線沿いに走行する。前述の通り今日も暑いが、海風が心地よいので問題はない。
さて、この道の沿道には「静御前生誕の地」という看板が出てくる。え、義経の嫁さんってこの辺りの出身だったのか。また、その静御前を祀った静神社まで存在する。関係ないが、以前、大河ドラマか何かで石原さとみがこの役に挑戦していたな。これまた関係ないが、彼女の本名は石神国子っていうそうだ。さらに、堀北真希は原麻理奈って、全く違う名前じゃん。でも、芸名がその人のイメージをうまく表現していることは間違いなく、名前を考えた人のセンスをうかがい知ることができる。
網野地区からは、再び国道178号線で北上していく。この辺りはとても海が綺麗で、北海道の積丹半島を連想させる。また、この辺りに「丹後松島」と呼ばれる地域がある。なるほど、この景色はそれほどまでに評価が高いということなのか、納得。
丹後半島の西海岸にて
ちょっと景色が見える所でマシンを止めて、休息する。綺麗な海岸線と青い海、晴れた空、そして崖を上って吹いてくるさわやかな風、初めて訪れる丹後半島はとても良い印象だ。中には「何もない」と思う方もいるだろうが、それが良いのではないだろうか。もちろん、当方も若いころはこういうものの良さはあまりわかっておらず、35歳を過ぎてからやっと気がついた。
水分補給と気持ちの補給をして、再び走り出す。丹後半島は大きな街があまりないが、温泉や海水浴場がたくさんある。夏はとても賑わうのであろうか、そう考えながら鄙びた漁村をいくつも通過していく。そしてその度に経ヶ岬が近づいてくるので、案内標識の残りの距離を示す数字が小さくなる。それと共にワクワクする気持ちが大きくなってくる、いわば反比例しているのだ。
こうして経ヶ岬に到着し、経ヶ岬トンネルの手前で人が立っている。「この先は通行止めだよ」と言うが、そりゃないでしょう。半島を一周しようと思ってここまで来たのだが、仕方ない。ひとまずはもう少し岬に近い駐車場まで行き、灯台をめざすことにしよう。
少し狭い道を上っていくと、駐車場が現れた。隅の方にTDMを止めて、マップルのコメントの通りここから400m歩く。たかだか400mだが、これがまたすごい急こう配の階段であり、またサルの糞が至る所に落ちているという何とも険しい道だ。そのサルだが、看板には「目を合わせるな」などのちょっと怖い文句が書かれている。ただ、昼間でまあまあの人数の人がいるせいか、サルに出会うことはなかったと補記しておこう。
それにしてもこの道、灯台まで行くにはなかなか時間がかかる。普段運動している、一応スポーツインストラクターの当方でも息が上がりそうだ。しかし、断崖の下にみえる海はあくまでも綺麗であるから、それが歩く気持ちを奮い立たせてくれる。
そしてやっと灯台の頭が見えてきた時は、思わずガッツポーズが出てしまう。たかだか数百メートルの道程だが、これは厳しかった。独りで悦に入りながら、灯台を眺める。そして解説の看板によると、ここは近畿地方最北の地にあたり、灯台は1898年に設置されたようだ。もちろん、工事は難儀であったようで、2年半もの工期を費やしたとも。
先人の苦労を想像しつつ、青い海に映える真っ白な灯台を楽しむ。時代は余裕を削って効率を求め続けているが、経ヶ岬灯台を周辺だけは時間が止まったように穏やかだ。波の音、風の音がするのみで、心が落ち着く。
灯台の下はこんな絶壁だ
十分に景色を楽しんだ後、元来た道を歩いていく。するとさらに高台に行くことができる、歩道の支線を発見したので、そちらに寄り道をする。もちろん、ここも相当な勾配で、額からは汗が出てくる。しかし、上りきったら良い景色が待っていることだろう。そう考えて100m程の道を歩いていくと、木々が茂っていて景色が見えないじゃあないか!!!。
これはやられたが、人生と同じでこういうことは頻繁に起こりうることだ。現に今、人生の中でそういう事態に遭遇しているわけだし。
ボツボツと歩いて、駐車場に戻ってきた。あー、疲れた。まあ、幸いにもTDMは日陰に止めてあるので、そこで水をがぶがぶと飲んで、体を冷却する。それはそうと、この駐車場にはカメラを携えた方がたくさんいる。三脚に乗せたカメラを皆同じ方向へ向けているので、何かを狙ってのことだろう。また、東屋では絵描きさんと思われる人がいて、シュラフと簡単な荷物を載せた自転車が置いてある。そうか、自転車のスケッチ旅行というわけか。
一息ついてTDMを始動し、国道まで下りていく。そして、元来た道を戻るのだが、その際、バス停がと車庫があることに気がついた。ここまで路線があるということだろうが、テレビ東京の「路線バスの旅」でここが登場したことを思い出す。
国道178号線を西へ進み、途中で丹後縦貫林道に乗り換える。少し半島の内陸を通り、東海岸へ繋ごうという作戦に出たわけだ。さて、この縦貫林道であるが、片側1車線の完全舗装の超快走路で、右へ左へ中速コーナーがひっきりなしに続く楽しい道だ。時々、サルがいたりして驚くが、向こうも不用意に近づいては来ない。そう考えていると、道路の真ん中に2頭のサルが見えた。何だろうと思ったが、道路上に子ザルと思われる遺体が見えた。ああそうか、車にはねられて死亡した子ザルを見て、親ザルが当惑しているのか。
ちょっと重たい雰囲気の場所なのだが、二次災害にならないように速度を落として通過する。そして碇高原で府道652号線に乗り換えると、前方にドカのSSが見えた。こんな日でも走っている人がいることが嬉しいが、声をかけることはなかった。
碇高原
府道652号線を進み、次いで57号線に乗る。地図によれば「丹後大仏」なるものがあるようなので、寄っていきたいと考えつつ走行を続ける。因みに、この道は1.5車線の普通の道だった。そして、国道178号線に出ることができたが、大仏の正体はわからなかった。
ここからは右折して宮津方面に向かうつもりだったが、この先3㎞程先に宇良神社(浦島神社)と言うものがあることに気がついた。大仏を見損ねたので、少し寄り道していくことにした。
国道を走っていると、向こうの方に通行止めの看板が見えた。経ヶ岬からここまでが通行止めというわけだが、幸いにも宇良神社はそこから伸びる府道623号線沿いにあるので、問題はない。
さて、件の神社であるが、まったく地味なものである。当方の他には誰もいない。一礼して境内に入り、お参りをする。そして、本殿の横にある看板を見て、伝説がどのようなものを確かめる。
宇良神社(浦島神社)
まとめると、紀元720年に日本書紀に書かれているということで、他の地方にもある浦島伝説よりも古いそうだ。それによると、紀元478年に地元の領主の息子「浦の嶋子(くしき)」が「神姫(おとひめ)に誘われて」「常世(とこよ)の国」に行き、825年に帰ってきたそうだ。これは民衆よりも貴族に伝わったそうで、一般に広く知られるようになったのは明治になってからと、かなり新しい。
さらに、日本書紀には「詳細は別巻に書いてある」と記しており、それはこの地方に伝わる「丹後国風土記逸文」に「見たことも聞いたことない所(常世)に行ってきたということだ。
話は逸れるが、遠い昔に鳴門の大学に在籍していた頃に、同じ伝説がある香川県の三豊市に行ったことがある。よくよく考えてみると、その紫雲出半島もここ丹後半島も良く似た雰囲気である。
ただ、伝説がありそうな雰囲気と言う点では、こちらの方が何倍も趣深い。看板を見て「ここが本家じゃないかな」という気がしてならない。そう考えつつ、神社を後にするが、片隅に「宝物館」という紙が貼ってある古びた建物があった。また、見学もできるようだが、インターホンで人を呼び出さなくてはいけないので、昼時の今は遠慮することにした。
上記のように神社は雰囲気満点だが、隣に水の江里浦嶋公園という俗なものがあるので、とても残念だ。ここにはなぜか、ローマ時代のコロシアムを模した建物があり、イタリア料理を楽しむことができるようだ。もちろん、昼飯時なのだが、駐車場には一台も車は止まっていなかったと補記しておこう。
浦嶋伝説に触れた後、丹後半島の東海岸を南下していく。それにしても、この丹後半島は風光明媚な場所である。青い海のすぐ近くまで山が迫っていたり、時々通る街はほとんどが水田だったり、心穏やかにTDMの積算計を回していく。
遊覧船が出ている伊根町を過ぎると、海岸ギリギリの道になった。ちょっと波があって、小笠原しぶきが当たっているので、バイクが錆びないか心配だ。それと、急速に空腹を感じてきたので店を探す。先ほどの伊根町はリゾート地なので、店がいくつかあったのだが、それを見送ってしまったのが痛い。そう考えていたら、回転灯が出ている建物が見えた。喫茶店のようだったので、迷わず入ると「そば屋」だった。この際何でも良い。
「まる丹」と言う名のこの店に入り、あまり広くはない店の空いた座敷へ座る。メニューを見ると、なんと北海道は音威子府産のそば粉を使った、10割そばの店だった。ここでそんなものを食べられるとは、何とも不思議な感じだ。もちろん、ザルの大盛り(1,380円)を注文した。
地図を眺めていると、もうすぐ天橋立がある宮津市のようだ。丹後半島はとても大きいと思っていたのだが、実際は周遊すると80㎞ぐらいと、地元の知多半島よりも少し小さいんだな。おおっと、そばがやってきた。いただきます。
ざるそば
ここのそばは皮を剥いてから粉にしているのか、色が白い。因みに音威子府にあるそば屋は「黒いそば」を出してくることで有名だが、それを期待した当方はかなりのマニアのようだ。
そばの味はとても良く、丁寧に作られたものであることがすぐにわかる。また、つゆも十分に寝かしたものであるようで、お品書きにもその旨記載があった。こいつは今まで食べたざるそばの中でもトップレベルに旨く、それをここ丹後半島で食べている違和感というか、それがとてもおかしかった。
再び走り出し、丹後半島を後にして宮津市街を抜けて、府道45号線に乗り換えて舞鶴をめざす。いやあ、それにしても暑い。今まで海沿いの気持ち良い道を走行していたせいもあり、内陸に入ったら風が無くなってしまった。こいつはまいった。
たまらず、途中で自販機がある商店跡で冷たい飲み物を飲む。再び気合を入れて、国道175線に乗り換えて機首は東向きを維持する。西舞鶴で国道27号線に乗り換えて、ダラダラと市街地を走って、その後坂を下ると前方に軍艦が見えてくる。ああ、やっと舞鶴に到着か。
疲労感が出てきたが、もう少し頑張ってフェリーターミナルをかすめて、引き揚げ記念館へ向かう。いつもは北海道へ行く時の通過点である舞鶴だが、その際にこの施設が少し気になっていた。そこで、今回は思い切って寄ってみることにしたのだ。
左手にフェリーターミナルを見ながら、一旦国道27号線を離れて府道21号線でちょっとした半島を進んでいくと、市街地から20分ぐらいで到着だ。結構な距離があったのは意外だった。
暑いので、急いで入館料の300円を払って建物に入る。ところで、何で引き揚げが気になっていたのかと言うと、元嫁のおばあさんが赤十字の従軍看護師だったそうで、少し話を聞いたことがあったのだ。何でも病院船という赤十字のマークの入った船で、負傷した人を看護していたということだった。また、おじいさんに当たる人は満州に渡っていたらしく、義父もそこで生まれたようだった。
そして戦後に引き揚げてきた際、下関に上陸して、原爆投下から数か月後の広島も通ったということだった。戦後の混乱の中をどうやって日本に帰ってきたのか、どう考えても想像がつかなかったので、この引揚記念館を訪れたいと思っていたというわけだ。
さて、入口のホールへ進むと、いきなり赤十字のマークが入った船の写真が掲示されている。ひょっとして、これがそうなのか。推測するに、終戦時に海外にいた日本人は600万人以上いたそうで、日本で残っている船を集めて引き揚げを促進していたのだろう。だから、病院船がその中に含まれていたのではないだろうか。
引揚船
期待してさらに進むと、どうも変だ。というのも、シベリア抑留の展示に変わっているからだ。これについて、「引揚者」とは本土を離れていた民間人の帰国者で、軍人については「復員者」と呼ばれているのだが、その辺りがゴチャゴチャになっている。この先の展示も、抑留に関するものが続いている。つまり、ここは「引揚記念館」と言っているが、実際は「復員記念館」ということだった。ちょっとがっかりしたが、まあ抑留のことを知るのも悪くない。そう思って、展示物を見ていく。
シベリアの抑留についてだが、当方は少しネットで手記などを閲覧したことがある。詳細は省くが、まさに過酷極まる環境下で死を背負っていた、という印象を受けた。その予備知識をもって展示を見ると、それを裏付けるようなものを多数発見した。木の皮に書かれた日記は有名だが、何かの包み紙なんかも利用していたようだ。人間は極限の状態になると、生きているという証を残したくなるのだろうか。
また、収容所の生活を再現するために、これまた有名なパンの分配の様子を人形で模してあった。さらに、何か話している人がいたのだが、この人は実際に引き揚げてきた人のようであった。その話で「・・・船内では白いご飯が提供されるのだが、今までまともな食事をしていなかった人が喜んでガツガツ食べて、腸閉そくになってしまった人もいた・・・」というものがあった。
過酷な日々を過ごして、日本の土を再び踏んだ人達の喜びはどれほどに大きいものだったのか。また、図らずも命を落としてしまい、シベリアに埋められた仲間のことを考えて罪を感じた人もいたかもしれない。
引揚記念館には屋外展示もあり、有名な岸壁の母の歌碑もある。展示を見た直後だけに、その歌の意味がいつもよりも心に深く刺さってくるような気がした。結局、戦争で不条理を被ったのは戦争とは関係のない、民間人だったということか。
ちょっと気持ちが重たいが、地図をみてルート確認をしてTDMを発進する。府道21号線を戻り、国道27号線で東へ向かう。さようなら舞鶴、また来るよ。そう心に誓って、タラタラと国道を進んでいく。
時刻は15時を回っているので、日の入りまでは4時間近くある。まあ、焦ることもないのでできるだけ一般道を使い、最後に少しだけ高速に乗ることにしよう。それにしても市街地の走行はタルい、余程高速に乗ろうと思ったが、小浜を過ぎると陽も傾いて気温も下がってきて、交通量も減って快走モードになってきた。
27号線で上中を通り、国道303号線にスイッチして今津、さらに琵琶湖沿いに通る国道161号線でマキノ、西浅井で再び303号線と細かく繋いで滋賀県に入る。ここまで来れば帰ってきたようなものだと感じるが、実際にはまだ150㎞近くの距離を残している。
国道8号線にぶつかって、木之本を通過し、さらに国道365号線で長浜を通り過ぎる。途中で水分と糖分を補給して、伊吹山のふもとにたどり着いた頃には陽が落ちたようだ。まあ、この辺りから高速に乗るか、ということで関ヶ原I.C.から名神高速を走り出した。
高速って楽だなぁ、こういう時には有効な手段だと納得しつつ、岐阜羽島を過ぎて愛知県に入った。さらに、先日まで通っていたポリテク小牧の横を通り、名古屋I.C.でおりる。因みに、料金は1,520円だった。後は県道219号線で20時前に自宅アパートに到着した。
5月の連休に出かける気分になれなかったが、今回は多少の引っかかりがあったものの無事に行程を終えることができた。これはとても嬉しいことだし、これからも続けていきたい、大切な事である。
今回は初の山陰ということで、勝手がわからない中での旅立ちだった。しかし、以外にもこの方面はやりやすいと思われる。安宿はあるし、キャンプ場も多々見られた。宿泊については、あまり苦労しなくてもよさそうだ。
次回山陰を旅する時は、さらに西へ行って島根、山口へも回ってみたい。
また、このレポートを書いている7月4日現在も失業中であり、さっきまで職務経歴書を作成していた。しかし、応募先には限りがあるし、そもそも受かるかどうかわからないものに応募するということは、なかなか辛いものがある。
しかし、仕事は趣味を支える大切な資金源であり、再び職に就くことはツーリングを楽しむことそのものである。そう考えて、何とか乗り切りたいものだ。
それでは、また次回のツーリングでお会いしましょう。
本日の走行 390㎞
総走行距離 960㎞
完