広島の旅 2015

 

2015年 5月1日~4日

 

在りし日の産業奨励館と原爆ドーム

 

 

第三日目(5月3日)

 

1.出発

 

朝は4時30分頃に目が覚めたが、さすがに早いだろうと2度寝して5時頃に起床した。空を見上げると、まだ青空が見えてはいるものの、昨晩よりも湿度がさらに上がっているように感じる。昼ぐらいまでは持って欲しいなと思いつつ、お湯を沸かしてキャラメルマキアートとカロリーメイトで朝飯とする。

 

ここは標高が高いせいだろうか、結構冷え込んで目が覚めてしまった。シュラフの性能が落ちているのだろうか、帰宅したら丸洗いしてみよう。

 

まだ周りの人は起きていないが、雨が降る前に広島の市街地を見たいので、撤収にかかる。テントそのものは夜露もかかっていないので、楽に畳むことができた。ただ、グラウンドシートについては、やはり地面の湿度をまともに受けているので、雑巾で拭いた後に無理やり折り畳んだ。

 

この旅では2回目の撤収なので、すんなりと作業が完了した。自分としてはとても早い6時30分に出発した。補足であるが、キャンプ場の料金は支払う気はあったのだが、管理人がいなかったので、結果として支払うことができなかった。

 

ちょっと風が冷たく感じる、気温は15℃というところだろうか。やや寒いと感じつつ県道30号線を下っていくと、だんだんと気温も高くなってきた。思った以上に標高が高い場所にであったようだ。

 

岩国広島道とJR山陽新幹線の下をくぐり、国道2号線バイパスに乗り換えてから広島市街へ針路を採る。この時間は交通量も少なくガラガラヘビなので、速度は30ノットを維持して進んでいく。天気は先ほどから変わっていないので、雨が降る時刻が遅れてくれることを願う。

 

国道を住吉町交差点まで走行し、ここを左折して吉島通りを北に進んでいく。昨夜考えた飛行計画通りのルートを走行していることに安心し、真新しいビルが立ち並ぶ市街を進んでいく。ここだけ見れば、70年前の原子爆弾爆発など全くわからない。

 

ひどく蒸すので、通り沿いのコンビニに入って水を購入する。ふぅ、まだ時間が早いから、さらには連休真っ最中の日曜日だからだろうか、人影はまばらである。さて、では平和記念公園へ向かいましょうか。

 

再びエンジンを始動し、吉島通りを進んでいくと平和記念公園に到着した。おや、今日はお祭りがあって、10時30分からはこの辺り一帯は交通規制があるようだ。早めに来てよかったね。それはそうと、駐輪場はないのだろうか。近くで祭りの準備をしている納入業者と思われる方にたずねてみると、「その辺止めておけば大丈夫ですよ」ということだった。愛知ではそんなことしたら一発で巡視員にやられるところだが、今日はお祭りだから大丈夫なのだろうか。それではと、なるべく邪魔にならない端の方へバイクを止めておく。

 

2.平和記念公園

 

2007年に長崎を訪れ、今回は広島に来ることができた。当方は反戦の思想や戦争が好きということはないのだが、平和が続くことに越したことはないと考えている。ただ、過去に起きた事実はこの目で見て、自分なりの解釈をしておきたい。今回のツーリング先を広島にしたことは、このことを実行に移すためだ。

 

一段高くしてある平和記念公園に入り、一礼してから慰霊碑に向かう。この慰霊碑に刻まれている言葉はあまりにも有名で賛否両論があるのだが、以前この碑の「過ち」の部分を削り取ろうとした者がいたらしい。この言葉は、そういう狭義な意味ではないと思うのだが。

 

ここで黙とうをして再び目を開けると、アーチの向こうに原爆ドームが見えた。今日は天気が曇りで薄暗いことも手伝ってか、この瞬間に恐怖に襲われた。やはり、ここに原子爆弾が投下され、爆発したという事実は本当だったのか。

 

早朝の平和記念公園

 

先へ進んでいくと、原爆の子像が見えてくる。例によって広島市観光協会の公式HP(http://www.hiroshima-navi.or.jp/)によると、「佐々木貞子さんという方が、原爆投下から10年後に白血病で亡くなり、同級生の方々の発案でこの像が建てられた」ということだ。そして、このことが全国に広がり、折鶴が広島以外からも届くようになり、専用の場所が用意されたというわけだ。ここでも黙とう。

 

原爆の子像

 

さらに進んでいくとちょっと森のような場所になり、その先には原爆ドームが現れる。遠くから見ているだけでもその独特の雰囲気、存在感には圧倒されるが、近くで見ると近寄ることさえはばかられるような威圧感さえある。この理由としては、原子爆弾により破壊されたということに由来するのかと思う。やけにしっかりと残っている壁とは対照的に、骨組みがグニャグニャになっているからだ。元安川沿い沿いに歩いて、爆弾投下の目標地点となった相生橋にやってくる。ここで、鐘が鳴っている事に気がついた。え、8時は過ぎたはずだが・・・、ひょっとして8時15分に毎日鎮魂の鐘が鳴るのだろうか。

 

こんなことも知らなかったとは、やはり自分は無知である。相生橋のたもとにある相生の松を横目に少し上り、右に曲がって川を渡る。いよいよ原爆ドームが近くなってくると、何となく胸が苦しくなってきた。川を渡りきり、相生橋の説明の碑を見つけた。そして、ここに書かれていることを読んで驚いた。「原爆が爆発した時の爆風で橋がしなり、橋の上にいた人が叩きつけられた」ということだ。その人達は、いったいその瞬間に何を思ったのだろうか。

 

さらに苦しくなりつつ、ドーム前の碑にたどり着いた。ちょうどツツジが満開となっていることで多少緩和はされているものの、最初に見たときからの衝撃が心の中で波動となって響いており、苦しい。ここでも黙とうをささげ、碑の説明文を読む。なるほど、様々な意見があったようだが、昭和42年当時の広島市はこの建物を永久に保存することを決めたようだ。

 

周りにつくられた柵に沿って建物をよく観察すると、壁にガラスか何かが刺さっている場所が見えた。また、地面には装飾用の何かの形をした石がゴロゴロしている。そして、川側にきてドーム部分を見上げると・・・。完全な丸い形ではなく、爆風がきた南東側から強く押しつぶされていて、ひしゃげている。何ということだ、あのような丈夫そうな鉄骨が風の力で押し潰されているとは。今まで、完全な丸い形だと思っていただけに、これも衝撃だった。

 

これが決定打となり、今日のところは平和記念公園を去ることにした。ドームを何回も見返しながら、元来た道を戻っていく。元々この公園は商業の街があり、活気に満ちた人間の生活が営まれていたと聞く。それが一発の原爆で、一瞬にして破壊された。もっとも、爆弾を開発したアメリカ側も必死だったようで、やっと性能が出始めたばかりのB29爆撃機に、重さが5トンもあるものを載せて、3,000㎞離れたテニアン島から運んでくる。もしも日本軍の高射砲にやられたら、戦闘機に打たれたら、B29が故障して操縦不能になったら、当の本人達も命がけだったようだ。

 

また、この原爆はアメリカ本土で製造されて、巡洋艦のインディアナポリスでテニアン島に届けられた。そのインディアナポリスは、アメリカ本土に戻る時に日本軍にやられて沈没させられている。帰りではなく、行きにやられていたら、もちろん大爆発である。さらに、原爆投下の任務に携わった者の中にも、罪悪感に苛まれる人がいたようだ。結局戦争とはそういうものなのだろう。

 

最後に一礼して、平和公園を後にする。本当は資料館も見学する予定だったが、今日はここで勘弁して欲しい。当方にとって、広島を訪れることはとても衝撃的であった。

 

3.岡山

 

広島での宿題は残ったが、忘れられない訪問となった。次回はもっと予習をして、マッハステムにも負けないような心で臨みたい。そう考えながらマシンを発進して、平和大通りを東進、国道54号線の鯉城通りに出たら左へ曲がり、そのまま広島城まで行く。国道はここで左、右とクランク状になっている。因みに広島城は石垣しかないので、正確には広島城跡だ。

 

そのまま祇園新通りを北上して、広島空域を離脱する。やれやれ、市街地は疲れるな。これからは山道が中心となるので、TDMの性能を発揮できるぞ。おっと、その前に燃料を搭載しておこう。ちょうど路面電車の中筋駅付近に、スタンドが見えてきた。

 

走行距離が380kmで給油量が15Lだったので、25km/L。まあ、市街地走行が中心だったので、こんなものでしょう。さて、気を取り直して出発するか、ああ、雨が降ってきちゃった。ええい、とりあえずはカッパ装着はしないで走行していくが、期待に反して雨脚は強くなる一方だ。仕方なく路肩に止まり、カッパを取り出した。カッパッパァ~、ルンパッパァ~、キィ~ザクラァ~♪。

 

雨降りは自分の力では何ともならないので、このくらいアホなことを言っていないとやってられない部分がある。鼻歌を歌いながら、国道54号線を磁方位070°で淡々と車輪を進めていく。そして偶然にも、マップルのコメントにも「淡々と走る」という記載があった。マップルは実走調査をしているので、コメントはバイク乗りが書いている。考えることは同じなのだなぁ、とつくづく感じてしまう。

 

三好市で国道183号線へ乗り換えるが、疲れてしまったので飲み屋の軒先を借りて休息する。ふう、ポカリスエットが染み渡るぜぇ、肩や腰を動かしながら固まった筋肉をほぐしていく。そして、地図を確認して今後のルートを検討する。それはそうと、いったいどこへ向かっているのか、と質問が出てきそうだ。それは、会社の先輩のご実家へお邪魔しようというわけだよ、ヤマトの諸君。ここを訪れるのは、2013年以来のことだ。詳細は、岡山・広島ツーリング 2013を参照願おう。

 

飲み屋の軒下なので当分人は来ないと考えていたところ、偶然にも女将さんがやってきた。「雨宿りでお借りしています」と話したら、「どうぞどうぞ」と快く許可をいただいた。ただ、やはりバツが悪いので、長居は禁物だ。そろそろ出発しよう。

 

気持ちはイマイチだが、TDMはすこぶるご機嫌だ。この270度クランクの鼓動、歯切れの良い排気音、マイルドなマシン特性、何をとっても「ツーリングをしてくれ」と言わんばかりの性能だ。雨のツーリングも、こいつなら乗り切れるし、今までも乗り切ってきた。気楽に行こうではないか。

 

そのまま国道183号線heading 090°で走行を続ける。三好の街を過ぎれば、再び山道となる。所々狭くなったり、葉っぱが落ちていたりして緊張が続く。ただ、慎重にアクセルを開けていけば、先ほど述べたTDMのマシン特性も相まって動じることはない。要はライダーの精神力さえしっかりしていれば、問題はないのである。

 

次の街は庄原であるが、急に尿意を催してきた。おお、ヤバいなぁ、どうしようかと思って街に入っていく。すると「ラ・ムー」といういつぞやの歌手グループのような名前のスーパーを発見した。ちょうど大きな軒下もあるので、そこへバイクを滑り込ませる。ちょうどトイレの入り口付近だったので、助かった。

 

腹が減ったので、スーパーの惣菜で昼食とする。ここはなぜか惣菜がやけに充実しており、そこからたこ飯と野菜の煮物を選択した。雨がしとしとと降る中の食事はちょっと寂しいが、自由に動くことができるこのスタイルは楽しくてやめられない。

 

後は新見市まで、80km程度だ。30ノットを維持すれば、90分弱で到着する。腹も満たされたので、落ち着いて操縦しよう。県道442号線、23号線と繋いで快走していくが、雨降りで道幅も狭いので、慎重な走行を心がける。具体的にはパワーのかけ方をゆっくりにしたり、車体を傾ける際はゆっくりとしたり、普段にも増して「急」な動作は控えることが肝要だ。

 

庄原の次の街は東城だ。ちなみに西城はヒデキであり、「ぅくぅやしいけれどぉ、ぅおまえにむちゅう」である。前述の通り、雨はくだらないことを言っていないとやってられないのである。そう考えていると「日本ピラミッド」の看板を通り過ぎた。これは一体何なのだろうか、全くわからない。気になるならば寄っていけばよいのだが、看板が急に現れるので、止まることができずにそのまま行ってしまう。

 

中国道の神郷P.A.が見えたので、先輩の実家はもうすぐだ。県道8号線に乗り換えて、標高を上げていく。若干コケむしている場所もあるので、特に注意してコーナーを抜けていく。そして、少し開けて石切場の跡へやって来た。ここのコーナーを2つばかり越えれば、右側に家が見える。やれやれやっと到着した。

 

4.先輩の実家

 

TDMの音が聞こえたのだろうか、先輩が出てきた。そして「奇遇ですなぁ」とあらかじめ口裏を合わせておいたように、挨拶をする。実は、先輩の奥さんは名実共に恐妻家であり、先輩のやることには必ず文句を言うそうなのだ。もちらん、帰省中に部下がやってくるなんてことは言語道断であろうから、「たまたま同じ日に来た」ことにしておいたのだ。この件について、後日会社で先輩と話したところ、奥さんはかなり怪しんでいたが「シラをきり通した」ということだった。何でそこまでやらないといけないのか、先輩が気の毒でならない。

 

この後はネコや先輩の息子と遊んだり、お母さんの指導の下、パンをこしらえたりした。このパンであるが、お母さんの本職であり、生地は「ホシノ酵母」というもので発酵された無添加のものである。詳細はhttp://hm-nora.com/を参照願おう。

 

焼きあがったパン

(管理人の作品も含まれています)

 

さて、先輩の家で先輩の手料理をご馳走になり、20時30分に市街地にある旅館「みよしや」にチェックインする。風呂に入った後、メモをつけて寝る。明日は晴れて欲しいが、天気予報は雨である。

 

本日の走行 200km

 

5. 帰宅(第4日目 5月4日)

 

この日も天気は回復せず、自宅直行のプラン提出・承認となり、中国道、中国吹田J.C.Tで名神に乗り換え、京滋バイパス、名神、新名神、東名阪、名古屋第二環状道で帰宅した。

 

本日の走行 431km

 

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