出発前の一葉
顔がまたオッサンになった
ついこの間、「もう2015年ですか~」と正月が来たことに驚いていたのだが、その2015年も既に5月である。このままではあっという間に梅雨入りだ。光陰矢の如しなどど、若い頃には気にもしなかったが、こういうことを言うのだろう。
それはそうと、ここのところ精神状態が思わしくなく、「5月病」の症状が出ている。要するに「会社に行きたくなくて、朝になっても起きることができない」というものだ。いや、実際には仕事に行かないといけないと思っているのだが、どうにも体が動かないのだ。まあ、結局は無理やりに仕事に行き、それなりに過ごして帰宅するので休むことはないのだが、なかなか辛いものがある。
そこで、先月から計画していたことをを敢行し、自分を解放しようと思っているわけだ。今年は戦後70年ということもあり、一度は訪れておきたいと考えていた広島へツーリングに出かけることにした。ただ、距離、日程なんかも考えるとそれ程多くの場所へ行くことはできそうにないが、やはり行き当たりばったりで候補を選択する、いつもの方式に変わりはない。
行き先が決まれば準備は早い。宿泊はテントをメインに考えているので、北海道ツーリングで使用しているキャンプの道具、それから日程分の着替え、米を少々、荷物はこんなもんでしょう。それから今回の使用機材であるが、信頼と実績のTDM900である。因みに現在の累積走行距離が98,300㎞と大台まで1,700㎞に迫っている。今年10月には6回目の車検を迎えるので、現在の機齢は11年と8カ月だ。この旅中に決めたいところだが、上手くいくだろうか。
ところで、当方が所属する会社はカレンダー通りに営業しているが、正直暇なので1日前倒して5月1日から休みにした。もっとも、3日は天気が崩れる予想なので、観光は実質2日間を予定し、後は先輩の実家訪問、帰宅移動日とする。
さて、その先輩から「8時までに京都を過ぎていないと、渋滞にはまるよ」と助言を受けていたので、当日は朝5時に起床。食事やウンチングタイム、荷物の積載を済まし、6時30分に自宅アパートを出発した。尚、荷物はSL230での北海道ツーリングで実績のあるゴムチューブを使用してみた。これだとがっちりとシートに荷物が押し付けられるので、走行中のズレが少ないからだ。
出発してすぐに、いつものセルフスタンドで燃料も搭載し、直近の有料道路である「名二環」へ植田I.C.から乗る。しかし、頭がボケボケであり、湾岸道方面の名古屋南J.C.T.へ行くつもりが、上社I.C.へと逆方向の車線に乗ってしまった。ああ、何たるドアホ、このまま環状道を北回りで走行し、名古屋南I.C.で東名阪道へ行くのもよいが、今日は走行距離がかさむので料金の410円を無駄にして、上社I.C.から逆方向へ走って仕切り直しだ。本当は1円でも無駄にしたくないと思うのだが、そんなことを思っても後の祭りだ。
今日は天気も良く、既に太陽がやや眩しめに照りつけているが、まだまだ朝の気温は10℃台半ばなので、股引きとジャケットインナーは装着している。また、今回は冬だけに装備している風よけのナックルガードも取り付けたままとした。おかげで至極快適な走り出しとなり、さっきのポカも忘れて気分は上々だ。
実家のある東海I.C.を過ぎて、伊勢湾岸道に入る。ここは海上橋なので、風が吹くと転倒の危険性が高くなるが、今日は穏やかな天候なので景色を眺めながらの走行だ。おっと、左手には当方の故郷である東海市、またオヤジが勤めていた製鉄所が見える。しかも、原料岸壁に鉄鉱石が山積になっている。何回か工場見学に行ったことがあるが、ここは見たことがないので、その量の多さには驚いた。もっとも、国内の年間粗鋼生産量約8億トンの内、6千万トン程度と1割弱を生産しているのだから、大量の原料が必要なことは当然のことであろう。
順調に進んでいき、四日市J.C.で東名阪への合流も問題は無かったが、なぜか鈴鹿I.C.付近で渋滞にはまってしまう。電光掲示板の情報では長さが数㎞ということだが、完全に止まってしまうこともあったので、慎重にすり抜けをしていく。
そして亀山J.C.から、今度は新名神へ乗り換える。おそらくここで速度を落とす車両が多く、詰まっていたのだろう。いつも思うのだが、皆が均一の速度(制限速度付近)を維持して離脱、誘導路走行、合流をスムースに行えば、こんなことにはならないわけだ。変に速度を落とす人、車間距離を開けないで、加速と減速を繰り返す人をよく見かけるが、当然そこから渋滞が発生するというわけだ。
それはそうと、ライダーは渋滞中から急に腹具合が悪くなり、危険な状態にあった。ただ、ご存知のように、これには波があるので、次の土山S.A.まで何とか持たせることができた。
真新しい駐輪場にマシンを止めて、大急ぎでトイレまで走る。ふぅ~、やれやれ、助かった。少し落ち着いてきたので、マシンに戻って今後の道程を検討する。んー、京滋バイパスを通れば少し早いかもと考えたが、こちらは渋滞しているようなので、正規の名神高速を吹田J.C.まで走って中国道へ合流することに決定した。
土山S.A.にて
再びエンジンを始動し、本線へ合流して新名神を草津J.C.まで走り切り、名神高速を磁方位220°、速度は60~70ノットで飛ばしていく。それはそうと、カーブの無い道をこれだけの速度で走行するのだから、タイヤへの負担は大きいだろう。先ほどの休憩時にタイヤチェックをしたら、中央が笹暮れもみじ街道だった、ただ、今履いている「ダンロップのロードスマートⅡ」であるが、真ん中には硬めのゴムが入っているマルチトレッド構造となっているので、正確にはその部分の左右がササクレていることになる。因みにタイヤに硬さの違うゴムを使用する構造であるが、ブリジストンがSACTという商標で特許を取っていたが、最近になって期限が切れ、他メーカーも同じ構造の製品を発売するようになったものだ。
これなら今までよりは多少長持ちしそうな雰囲気なので、あまり神経質にならなくてもよいだろう。おっと、左車線から追い越し車線に割り込んでくる、某世界一と言っている自動車会社のブランドバッジを付けた車両を発見した。危ないなぁ、ちょっとお返しをしてやりたいぐらいだが、最近は歳も取ったので、「勝手に事故を起こしてください」と思うことにしている。関わりあって、危ない目には遭いたくないからね。TDMのパワーはそんなクダラナイことには使いたくない。
さて、プラン通りに吹田から中国道に乗り換えて、太陽の塔を横目に見ながら並走する県道2号線の車両に違和感を覚えつつ、走行を続ける。この区間は高架ではなく、一般道と並列に道が通っており、その間には仕切りがあるだけだ。
そして電光掲示板の表示通り、中国豊中付近で渋滞が始まった。今度は鈴鹿の時よりも酷いし、時間が経って日差しも強くなっているので暑い。仕方ないので、注意しながらすり抜けをしていく。幸いにもこの区間は車線幅が広く、片側3車線の道路なので問題は無い。
ソロソロと走行していると、ボーイング767型機が突然上空に現れて南側に旋回していった。後で地図を見てみると、丁度伊丹空港のR/W32の延長線上を走行していたようだ。
宝塚I.C.を過ぎたら渋滞も解消した。どうやら、この辺りは上り坂となっているので、速度を一定に保つことができない車両が渋滞を誘発しているようだ。電光掲示板も「一定速度を維持するように促す」ような表示はだせないものなのだろうか。速度を出さないことが安全という、ヴァかの一つ覚え的なことを言ってばかりいるから、渋滞を誘発しているのだよ。
ところで、インストラクター友達のマキチャンが、足繁く宝塚に通っているそうだ。時々レッスンの代行を頼まれるのだが、そういうことがあるから仕事ができるのだよ、と喜んで引き受けている。そろそろ休息をしたいが、結局は西宮名塩S.A.は通過し、神戸J.C.で山陽道へ乗り換えるところまで進んだ。これで広島までは乗り換えが無いので、気が楽になった。そう思いながら進んでいくと「淡河」P.A.の看板が見えたので、ウインカーを左に出して速度を落とす。
屋根つきの駐輪場にマシンを止めて、水分補給をして一息つく。ところで、この「淡河」は何と読むのだろうか。看板を通過する際に確かめてみたら「アゴウ」と読むらしい。こいつは難しい読みだ。
淡河S.A.にて
既にバテ気味
そう思いながら、もう一回トイレに行って軽量化をしておく。今はどの辺りだろうかと地図を開いてみると、何のことはない。まだ広島までの行程の3分の1程度を消化したに過ぎない。高速道路を走っているのにこんなに遠い広島、行き甲斐があるというものだ。
今日は天気も快晴で暑いくらいだが、世の中は連休である。タンデムのライダーを多く見かけるのは、そういう都合だろう。昔は(10年程か)高速をタンデムで走ること自体が禁止だったので、時代は変わったものだ。もっとも、高速道路の方が事故率が低いことは明白なので、ただ単に「イメージ的に危ない」から禁止していただけかもしれない。
水分補給を済ませて、第3レグの開始だ。本線に合流し、65ノットとやや飛ばし目で進んでいく。この辺りまで来れば渋滞はおろか、走行車線も追い越し車線もガラガラに空いているので、好きな速度を維持できる。
三木J.C.加古川、姫路、赤穂と聞きなれた地名の看板を見送っていく。つまり、これらの街の南に位置する神戸を過ぎて、さらに西へ来ているということか。ちょっと遠くへ来たなぁ、という実感が出てきた。
さて、この三木J.C.からは神戸淡路鳴門道へ向かうことができるのだが、今を遡ること12年、以前所有していたフィットで、四国うどんツアーを開催したことがある。そして、その期間中に「広末涼子が最初のでき婚」を発表した事を覚えている。その後、今の旦那と2回目のでき婚を発表したことは記憶に新し・・・、くもないか。歳をとるわけだよ。
そんなことを思い出しつつ、針路は270°を維持し快走を続ける。この辺りで広島まではようやく半分といったところだ。まだまだ先は長いし、周りは田園風景で変わり映えがしないし、道は直線だし、「タイヤの真ん中が減ってしまうじゃん」とモヤモヤ思っていた。それに加えてこのトンネルの多さ。危険な箇所であるにもかかわらず、集中力が散漫になりがちだだが、気を付けなければならない。
何とかタンチョウ鶴に耐えながら巡航速度を維持して走行していき、岡山県にに入った。腹も減ってきたことだし、作戦会議と休息を兼ねて、吉備S.A.で休息する。吉備と言えば、昔学習塾に就職しようと思って仮採用され、試用期間中に辞めたことがある。その際、キビシステムという各科目の問題を出力するソフトがあった。バーコードも一緒に出力されて、各生徒の正解率の低い分野を集中的に鍛えることもできたようだ。
ただ、問題を解くことて理論を理解できるということなら問題ないが、そこまで突っ込んだことは行わないので、結局問題の答えを覚えて終わりだったと思う。こんな生徒の管理みたいな仕事は続けられないので、2、3日で辞退した。
ちょうど昼飯時なので、自宅で準備・持参したトーストで、人間の補給を行う。因みにこのパンは「神戸屋」の全粒粉入りブラン食パンであり、この辺りで製造されたものと推測される。ところで、なぜこの商品を好んでいるかと言うと、繊維質を多く含んでいることに加え、イースト菌を使っておらず、割合とおいしいからだ。値段もいつも行くスーパーで180円と手ごろであると補記しておく。
ライダーの補給が済んだので、今後のフライトプランについて考える。昼飯の後には今日のランディング地点と、そこがダメだった場合のダイバート先を決めておく必要があるのだ。いつかのように、東の地の果てで宿無しになりかけたが、こういう事態は避けたいなぁ。
現在の時刻が12時過ぎだが、広島I.C.までは残りが150㎞程度であり、14時頃には到着できそうだ。当初の予定は、1日目は移動日だったので、予想よりも早く移動できたことになる。
さて、今回の目的地は広島周辺を回る計画だが、現在時刻からすれば広島市街地をみることができそうだ。いや、さらにその先の宮島まで走り切ったとすれば、到着時刻は15時頃となり、夕暮れの宮島を楽しむこともできる。ただ、明後日は雨予報が出ているので、時間がかかる所は今日、明日で訪れたい。そうなると、必然的に東側から見て回ることになるので、呉、次に宮島、そして広島市街という順番に決定した。また、宿泊地候補として呉周辺のキャンプ場を調べておいたので、問題はない。プラン承認。
ええと、燃料の残りは、ここまでに300㎞走行しているので、持久時間にしてあと1時間程度、100kmが限界だ。それでは呉まではとても持たないので、山陽道上のS.A.で燃料の再搭載が必要となる。因みに高速道路では、70㎞毎に設置されているS.A.にガソリンスタンドは存在している。ひとまずトイレに行き、ついでに案内所で情報を仕入れるてから燃料補給について考えよう。
それにしても最近のS.A.はきれいだし、色々な店が入っている。そう思いながら、案内所でスタンドの記載がある地図をもらい、恒例のタダお茶を飲みながら眺めてみる。おや、席の前には、うまそうなジェラートの屋台が出ているではないか。パンだけでは今一つ物足りないので、ここで限定商品の冷凍イチゴのジェラートを購入することにした。今日は暑いので、こういうものが旨い。もうそんな季節になってきたのかぁ~、冒頭の話ではないが、ついこの間まで寒かったのに。
メルカト・セントラーレさん
(中央市場:Central Marketの意味か?)
燃料は次の福山S.A.で搭載することにして、エンジン始動許可を得て出発する。途中で瀬戸中央自動車道へ分岐する倉敷J.C.を通過する、ここから四国へ行けるのか。またうどんを食べにいこうかな。
そのまま山陽道を進んで行き、笠岡、福山東I.C.を通過して福山S.A.の看板が現れた。今朝の給油からは410km以上を走行しており、次の小谷S.A.までには燃料警告灯が点灯しそうだ。調子に乗ってきたところなので止まりたくないが、当初の予定通りここで燃料再搭載をしよう。
ウインカーを左に出して、駐車場を徐行してガソリンスタンドへ向かう。本線上のスタンドはセルフが無いのだろうか、挨拶に迎えられて入店する。昨日は小雨模様でライダーも憂鬱そうだった、という店員の話を聞きながら16.2Lの燃料が入った。燃費は26kmぐらいだから、まあまあ良い方だ。
代金を支払って、そのまま本線へ戻る。気持ちが良いので、このまま走りきってしまおう。尾道、本郷と進んでいき、広島空港の南側に差し掛かった。つい最近、アシアナ航空のA320型機が着陸に失敗し、滑走路を逸脱する事故があったばかりだ。こちらも事故には気をつけねばならないので、気を引き締めていこう。
河内I.C.を過ぎて、小谷S.A.で休息する。かなり気温が上がっているので、水分補給をして頭をすっきりとさせる。地図で呉までの道のりを確認し、出発した。
本線を少し走って、高屋I.C.で高速を降りた。ETC車載器を持ってきたが、今日は平日なので料金は8,120円となっている。当たり前だが、割引は無い。ここで国道375号線に乗り換えて、針路を300°として30km程度先の呉市街地を目指す。この道は「東広島・呉自動車道」となっているが、料金は無料だ。ただ、片側1車線なので、流れは制限速度プラスαというところか。
途中、東広島の市街地付近を通過するが、ここは我らがエアロビクスの師匠である、和枝さんの出身地だ。事ある毎に「私の家はド田舎だ」と話しているが、全くその通りで、田んぼが目立つ。仕事がうまくあれば、田舎でのんびりと暮らしたいものだ。
山なりの道をどんどんと南下していくと、遠くに市街地が広がっているのが見えた。あれが呉の街かぁ、長かったなぁ。国道185号線と交わる「広」交差点を右折し、休山トンネルを抜けて大和ミュージアムを目指す。
それにしても暑い、今日は真夏日間違いなしだ。おっと、ダレている場合ではない。今日の宿泊地を決めておかなくてはならない。ひとまず、コンビニで止まり、目星をつけたキャンプ場に電話してみる。すると「前もって2週間前には予約が必要」とあっけなく断られてしまった。場所的に呉の市街地から近く、ちょうど良いと思っていただけにこれは痛い。いや、キャンプで断られるって、今まで初めてかもしれんなぁ。
次はちょっと市街地からか遠いが、江田島にあるビーチ長浜キャンプ場に電話してみると、駐車料金とキャンプ場使用料で2,000円ということだった。高いなぁと思うも、他にアテが無かったし、明日は江田島を観光するつもりなので、こちらに決めた。
宿が決まって一安心、ややダレつつも何とか大和ミュージアムに到着した。
大和ミュージアム駐輪場にて
背後の潜水艦は鉄のくじら館のランドマーク
警備員の指示に従って、建物西側の駐輪場へマシンを止める。今日は連休の中日とあって、多くのマシンをみることができる。また、そのうちの何割かは県外ナンバーであったと補記しておこう。そう言えば、この施設ができた頃に広島ツーリングをやろうか、という話もあったが、どうも高速道路を走って遠くへ行くことに納得ができなかったので、計画すら立たなかったということがあった。
まあ、高速道路の通行に高い金を払うこと自体はイマイチ腑に落ちないが、遠くへ行きたいという欲求には勝てない。ETC車載器もあるので、これからはこういう旅も楽しんでいこう。
さて、駐輪場から入口へ向かってあるいていると、早速大きなスクリューが目に留まる。銘板によれば、これは戦艦「陸奥」のものであるようだ。さて、この陸奥であるが、1920年に進水し、1943年に原因不明の爆発事故で山口県沖に沈没したようだ。尚、この当時は40cm砲を持つ戦艦は世界で7隻しか存在しておらず、兄弟船の「長門」と共に日本海軍の象徴であったようだ(以上、Wikipediaから引用)。
戦艦「陸奥」のスクリューと方向舵
(大きさは背後の警備員からご想像下さい)
さらに歩いていくと、その40cm砲を見ることができる。だいたい直径が40cmもある弾を打つって、どんだけの量の火薬が必要なんだろうか。しかも、それが敵艦なりに命中しなくてはいけないので、砲身も相当長くなければならない。
やっぱり長い
陸奥の主砲であるが、やはりでかい。いや、想像よりは小さいのかもしれない。銘板によれば、41cm砲で世界最大級、製造はここ呉海軍工廠であったと記載されてる。
最初に陸奥のスクリューと艦船砲で度肝を抜かれたが、これは序章に過ぎなかった。大和ミュージアムの館内に入り、500円の入館料を支払う。結果から申し上げれば、この料金設定はかなり安いと言えよう。
入館して最初に現れるのは、戦艦「大和」の1/10模型、いや実物だ。長さは約26m、幅は4m弱、実物はこの10倍かぁ。まずはその大きさに圧倒されるが、よくよく見てみると甲板には砲台はもちろん、艦載航空機や船員まで忠実に作り込まれている。この実物模型もさることながら、はるか70年以上も前にこれほどの造船技術が確立されていたとは、日本の工業力に脱帽である。
大和の1/10実物?
30m近い長さの1/10模型であるが、これは実物だと言っても差し支えない大きさだ。また、大きさもさることながら、甲板上の装備もかなり精巧に再現されている。よくよく見てみると、作業員の模型もいるではないか。そして気になるのは、後方にある艦載飛行機だ。もちろん浮きも装備したラム型の機体だ。
それにしても洗練された形状、これが70年以上も前に建造された船とは思えない。船首はバルバス・バウと呼ばれる水の抵抗を減らす形状をしており、大きさにしてはスリムな印象を受ける。
周りを歩いていると、兄弟船である武蔵の模型もある。また、ミッドウェー海戦では艦長を務めていた山本五十六のパネルが展示してある。五十六は新潟の出身であり、日本がアメリカに宣戦布告することを強く反対していたそうだ。それは、両国の工業力の差などを考慮しても、勝てる見込みが無いとわかかっていたからだろう。そして有名な「対米宣戦をぜひ私にやれとおっしゃるならば、連合艦隊を率いて1年や1年半は暴れてみせましょう」や「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」と言った発言などを残している。
これらは当時だけでなく、今の日本でも十分に通用する意味のある言葉であると思う。結局五十六は「暗号が解読されていて、アメリカ側に行動が筒抜け」という旧日本軍の超がつく間抜けな失策により、ラバウルの航空基地付近で待ち伏せされていた敵のP38ライトニング機に撃墜されて死亡している。こんなアホ共が軍という組織を動かしていたのかと思うと、世の中ってなんだろうと失望してしまう。
パネルの一部
(写真は大和の艦上で撮影されたもの)
近年の社会情勢や山本の死亡原因を考えると、この先全く生きていこうという気がしない。いっそ自殺して楽になりたい。そんな複雑な気持ちで隣の展示スペースへ移動する。こちらにはあまりにも有名な零式艦上戦闘機、戦争末期にヤケクソの特攻で使用された特集潜水艇や人間魚雷を見ることができる。昨年亡くなった叔父がこの手のものにはとても詳しく、いろいろと話してくれたことを思い出す。また、直接聞いたことはないが、祖父は旧陸軍で「工兵」として参戦しており、歩兵が進む道や橋をあらかじめ準備しておくという、何とも危ないことをしていたようだ。因みに、南京への道を通したこともあるようで、虐殺も目撃したらしい。
祖父はその後南方戦線にも徴用されたが、マラリアに罹患して帰国することとなった。そのおかげで管理人が存在しているというわけだよ、ヤマトの諸君。あ、祖父は鉄砲玉が飛んで来る中を走り抜けたことがあるようで、その際に「天皇陛下から賜った日章旗を腰に身につけているので、弾には当たらない」と思わされていたようだ。もちろん、実際にはそんなことはなく、件の日章旗には弾が通り抜けた穴が2つあったそうだ。
そんなことを思い出しつつ、回天に搭乗した者の遺書を読む。20歳やそこらで死にに行くとはどんな気持ちか、当方のように自殺したいと長年考えている人間ならば喜んで行くが、そんな人は稀であろう。残した家族や親に宛てた文章、胸が苦しくなる、
回天10型
(こんな細いものに人間が乗るのか?)
陰鬱な気持ちで零戦の方へ向かう。ご存知のように、当方は輸送機械が大好きであり、飛行機は大いに興味をそそる存在だ。戦争の兵器として飛んでいたことは感心しないが、徹底した軽量化、パイロットの質の高さなども相まって、山本五十六の言うように「暴れていた」ようだ。もっとも、軽量化は必要に迫られたもので、エンジン性能とがショボイから、仕方なくそうした部分もあるらしい。それ故に、パイロットを守る操縦席周りの装甲までは手が回らず、被弾=墜落だったからその優秀なパイロットも次々に失っていき、特攻というどうしようもない戦術を採ったわけだ。
もしも日本が戦争ではなく、旅客目的、輸送目的で飛行機を開発し続けていたならば、ボーイングの旅客機はそっくり三菱重工や富士重工に置き換わっていたかもしれない。そんな工業大国日本が実現していて、当方もそこに携わっていたならば、今よりはマシな人生もあったかもしれない。いや、今の自分は過去の自分の結果だから、時代のせいではないな。
それにしても、零戦の実物を見たことはないと思うので、とても嬉しい。また、その横には栄エンジンもあり、マニアとしては食い入るように見つめてしまう。また、横のショーケースには小さいながら透視モデルが展示されており、ゼロの構造の複雑さ、精密さがよくわかる。70年も前の設計・製造かと思うと感心しきりで、言葉にならない。自動車レースで「速いマシンは美しい」という言葉があるが、これは機能的に優れているものは、その形状も自然と良くなるものだという意味で、ゼロにそれを感じてしまう。つくづく俺って日本人だなぁ。
零式艦上戦闘機
栄31甲エンジン
(製造は中島飛行機)
ゼロ戦の透視模型
さらに、ゼロの横には潜水艦の輪切りが展示されている。よくよく説明書きを読んでみると、NHKが製作したドラマで、使用されたセットであることがわかった。また、出演者の中に「連仏美沙子」が名を連ねており、これは気になるところだ。もっとも、見る目がない当方が気になる女性なので、万人ウケするかどうかの保証は無い。
大和ミュージアムは屋上兼の4階建てであるので、展示は3階までである。ゼロの横にあるスロープを上がり、上から大和の主砲に用いた直径44cm「弾」を眺める。長さは約2m、重さは1.5トンもあるそうで、こんなものは金属の塊だよ。尚、解説によれば、大和の主砲の射程距離は42kmにも及ぶそうだ。
大和他、戦艦の「弾」
いささか驚きつつ、3階へ向かう。ここでは船の仕組みを子供向けにわかりやすく、さまざまな模型を使用して解説したコーナーがある。なぜ鉄の船が海に浮くのかという基本中の基本から始まり、船の建造方法や材料の強度を体感したり、操舵シュミレーターも完備している。
子供向けと記載したが、実は大人が見ても十分耐えうるほどに素晴らしい展示だ。最近ではこういうものは敬遠されるのかもしれないが、やはりその本質をわかるように示したものは教育的価値が非常に高いと思う。見た目を派手にすることばかり考えられていて、こういう大切な事がものすご~くないがしろにされている気がしてならない。流行りものは時代と共にどんどん変わっていってしまい、結局何だったのかわからないことが多い。しかし、本質を突いたものは時代が流れても、基本的にブレることがない。
学問の世界でも同様で、学校では上記のようなことを押さえた上で、受験なり職業なりに必要なものを教えていって欲しいものだ。
3階の展示に大満足してから、同じ3階にある大和シアターへ向かう。ここでは大和の設計思想や建造方法、なぜ呉だったのかなど、核心に迫る事柄を要点を突いて、かつ分かりやすく説明されている。この手の映像全般に言えるが、いたずらにわかりやすさを追求したものはいくらでもあるが、核心に迫るものは非常に少ない。また、ナレーションが黄門様の石坂浩二なのだが、彼は飛行機や戦艦への造詣も深いそうなので、言葉に重みがあるように感じられる。
さて、その内容であるが、まずはなぜ呉なのかということだ。呉には製鉄所、材料を加工する工場が点在しており、街そのものが工場として機能している。
ミュージアムの小窓から見た、
ジャパンマリンユナイテッド社の造船所
そして、大和の設計であるが、驚くことに「いかに小さくまとめるか」を主題にしていたようだ。つまり、アメリカやイギリスの戦艦と同じ規模の排水量を保ちつつも幅や長さ、高さを押さえようとしていたのだ。実際、同時代、同規模の戦艦に比べても、ひとまわり小さく造られている。もちろん、これは経済性で相手を上回ろうという考えがあったことに他ならない。
また、その建造であるが、工期を短縮するために、今はほとんど常識となっているブロック工法(サブアセンブリー工法)を採用していた。これは、各所である程度のまとまり(サブアセンブリー)まで部品を組み立てて、建造ドックではそれらをつなぎ合わせるだけというものだ。当然ながら、組み立てる順番通りに、必要なときに必要な部分を納品させて、待ち時間を無くして効率良く建造してくというものだった。
おや、どこかの自動車製造会社が「ジャストオン何とか」と偉そうに名前を付けて、いかにも「ウチが開発した」みたいなことを言っているようだが、実は大和の建造がその源流だったと言う訳だよ、ヤマトの諸君。
極めつけは、艤装と呼ばれる砲門など、必要な装備を全てではないにしろ、一部は建造と同時に装着しており、手順も綿密に考えられた工法を採用していたらしい。因みに従来は、船体が完成してから別の岸壁で艤装していたそうだ。
こうして、設計も製造も、当時の最高水準のものを利用して進水した大和だが、運命は皮肉であった。ご存知のように、太平洋戦争は日本がアメリカにある程度の損害を与えた、真珠湾攻撃に端を発しているが、これは日本が航空戦力による攻撃の優位性を示した戦いであった。つまり、戦争の主役は既に航空機であり、船ではないということを自ら示したに他ならない。大和のような戦艦を建造しておきながら、自ら戦艦はもう時代遅れだと公表してしまったのだ。
そして、次世代の戦力であるゼロ戦も、相手国の技術革新により急速に陳腐化してしまった。こうして、大和はあまりにも有名な特攻の支援船に落ちぶれて、最後は沈没してしまったのだ。
ただ、この大和建造の技術は戦後も受け継がれ、日本を造船大国にし、高度経済成長期を引っ張り、日本の復興に大きく貢献した。さらに、製造業はここから波及した技術などを利用して、これまた経済成長を後押ししたわけだ。
今でこそ日本は普通の経済国であるが、製造業の大国に一時期でもなれたことは、その基に大和があったからだ。我々日本人は大和を船としてだけでなく、製造業の勃興の源としても認識することにより、次の時代についても考えられるようになるのかもしれない。
すいません、つい力が入ってしまったが、この10分の説明付き映像はとても衝撃的な内容だった。
さて、いささか興奮して大和ミュージアムを出る。時刻は既に16時を過ぎており、陽が暮れてきている。早速キャンプ場へ向かって走り出すか、いや、ちょうど目の前にスーパー「Yu Me」があるので、ここで買い出しをしていこう。
キャンプの初日と言えば、手間がかからなくて量を確保でき、食べやすいカレーと相場が決まっている。米は家から持ってきているので、レトルトを購入するか。いや、相互リンクしている「放浪のページ」の主宰者、朗報さんが推薦の麺も捨てがたい。乾麺の売り場へ行ってみると、当方の好きなひやむぎが売られているが、「レモンそうめん」なるものを発見した。おお、なんだこれは、すごく気になるじゃあないか。
いやいや、ちょっと落ち着こう。そもそも麺にはつゆが必要だし、それだと余計な荷物も増える。いや、つゆは粉末のものを利用するか、それでも薬味が欲しい。麺のセンはこれで消えたので、改めてレトルトの売り場へ向かいカレーを購入する。
ついつい長居をしてしまったが、買い物を済ませてから大和ミュージアムの駐車場を出た。もと来た市道を東へ進み、突き当りの国道481号線を右へ曲がる。そして、海沿いの高台へ上りながら夕日を右に眺めつつ、製鉄所や造船所を眼下に見下ろして走行していく。
なるほど、呉は真の造船の街で、大和の映像にもあったようにさまざまな工場が密集している。心地よい潮風を受けて先へ進んでいくと、おんど(音戸)という倉橋島の北端にやってくる。さらに、国道は県道35号線に名称を変えているが、そのまま磁方位180°を維持していく。時々小さな集落を通過するが、既に本日の活動を終えて、明日に備えて就寝中と思われるくらいに静かだ。このような風光明媚な場所で、健康的な生活を営むことも決して悪いとは思わないが、現実は厳しいものだろう。
そう考えていると、再び国道487号線の通る大きなループ橋が見えてきた。そしてこれを渡り、倉橋島から江田島へ渡る。なかなかの大きな海上橋を走行していると、旅情も盛り上がってくる。今日は走ってばかり、少し大和という感じだったので、やっとこういう気分をなかなか味わうことができた。
黄昏ながら橋を渡り切り、県道121号線に乗り換えてさらに南下すると「ビーチ長浜」と書かれた小さな看板を発見した。ああ、やっと到着したよ。
ゆっくりと海岸に続く道を下りていくと、管理棟と思われるプレハブの小屋が見え、近くにいた若い男性が近づいてきた。電話で予約した旨を伝えると、好きな所へテントを張ってもらって構わないということだった。また、料金が2000円だったので、こちらも支払っておく。
コンクリートが打ってある所にマシンを止めて、荷物を解いていく。少し離れた所には良い歳をしたオッサン(人のことは言えない)のカブ軍団が宴会をしていた。話によると、東京方面から走り通しでやってきたそうだ。カブはゆっくり走ることに意義があると思うのだが、そんな旅をして面白いのだろうか。
あまり話が合わなそうなので、挨拶だけ済ましてテントの設営に入る。ええと、前回の設営は2014年の北海道ツーリングの羅臼だったっけ。やや手間取ったものの、概ね順調に寝床を確保できた。
暮れゆく長浜ビーチにて
さて、明るいうちに晩飯の支度を済ましておこう。荷物から米を出して、いつもの量を鍋にかけておく。時刻は18時30分、ちょうど日没の時間だ。こうして自宅から遠く離れた場所でキャンプをしていると、遠くへ来たなぁとしみじみ感じる。こういう非日常を求めてわざわざバイクで走ってきたのだが、こんなに面白いことは無い。
独り悦に入りながら、夕日に照らされて刻刻と色が変わる海を眺める。ここに住むひとにとっては当たり前の光景だろうが、自分にとってはとても新鮮だ。いけない、鍋の状況もどんどん変化して、米が焦げていくにおいに変わってきた。火加減を最大にして炊き上がりの時を待つ。
ところで、米を炊く時は蓋を開けてはいかんと言われるが、当方はしょっちゅう開けてはかき混ぜて、均等に火が通るように心がけている。火加減は最初と途中まで弱火、最後は強火である。まあ、こんなもんで米は出来上がりでしょう。後はレトルトを温める。やれやれ、やっと晩飯を食べられるよ。ただのレトルトカレーだが、今日も特別に美味しく感じる。キャンプだと何でも美味しいから、何とも不思議なものである。
まあまあかな
魚肉ソーセージもお忘れなく
何とか明るいうちに食事を摂り、片付けまで完了した。次は温泉だが、キャンプ場の人に伺ったところ「江田島市役所の近くにある国民宿舎 能美ロッジのお湯が好きだなぁ」という回答をいただいた。因みに、近所にも「シーサイド温泉のうみ」という大きな施設もあるようだが、「お湯が違う」ということだった。
貴重な情報を得て、さっそく空荷のTDMで走り出す。初めての道の夜間走行は危険なので、なるべくゆっくりと、落ち着いて進んでいく。先ほど渡ってきたループ橋の早瀬大橋を見上げて、国道487号線に乗って進んでいく。途中でセブンイレブンを見かけたが、このような何もない所でもコンビニはあるのだと、変に関心してしまった。
県道44号線に乗り換えて、直線的に島を北上していく。しばらくは普通の住宅街を通っていくが、突然市街地に出てきた。明暗の差に驚いてしまったが、ここで針路を西に変えて、県道36号線で温泉を目指す。地図を見ると、もう少しだ。
しばらく走ると「シーサイド温泉のうみ」の看板が見えたので、到着したとホッとした。ただ、目指すはこの施設よりも少しだけ先にある「能美海上ロッジ」である。海沿いの細い道を進んでいくと広い駐車場に出て、ロッジの看板も確認できた。夜間の初めての道は、8,000時間の経歴がある当方でも緊張するものだ。
ネコに迎えられて建物に入り、400円の入湯料をフロントで支払う。この際、江田島と広島市街地との間にフェリーがあることを発見し、時刻表ももらっておいた。
客室の並ぶ廊下を歩いて、浴室へ向かう。脱衣所は狭く古びているが、清掃はそれなりに行われているようなので、不快感は少ない。浴室に入ると、数人のオッサン(俺も同じ)が思い思いに風呂を楽しんでいる。その人たちに「新顔が来たな」という目で見られつつ、体を洗って湯船に浸かる。
んが~、今日はよく走ったので、腰や肩がかなり疲れているようだ。温泉が効きますなぁ、疲労物質がろ溶けていくようだ。中臀筋や半腱様筋、内側広筋肉、前脛骨筋などをほぐしながら、茶色のお湯を楽しむ。
窓から外を見ると、ぼんやりと海が見える。ここはちいさな岬の突端にある宿で、それを売りにしているとは後に知った。
ちょっとのぼせるくらいによく温まり、一旦湯船から上がって体を冷ます。別に盗み聞きしているわけではないが、15畳程度の小さな浴室なので他の人の会話は丸聞こえだ。詳しい内容は失念してしまったが、この風呂の「長老」らしき人が当方ぐらいの年齢の人に説教をしているようだ。その内容がまた時代錯誤なものだったのだが、中年のおじさんは黙って聞いていた。
長老は俺にも何か言いたそうだったが、こちらはもう一度湯船に浸かって血流を上げて、風呂から上がることにした。かなり体が熱くなっているのだろう、汗がボタボタ落ちてくる。扇風機の風が当たるところで仁王立ちしていたら、長老も上がってきたので、その場を空けた。長老だからどうかではなく、独り占めは良くない。
汗を流してさっぱりしたので、フロントに挨拶をしてマシンの下へ向かう。おいおい、真っ暗でよく見えないぞ。歳を取って暗順応が悪くなっただけだろうか。TDMのエンジンをかけて、県道36号線を戻り、市街地で44号線、国道487号線から県道121号線と繋いで、これまた真っ暗なキャンプ場に到着した。
カブの集団は既に爆睡に入っているようで、静まり返っている。一方、当方がいない間に隼にのる方がみえたようで、テントも1棟増えている。早めにエンジンを切り、そそくさと自分のテントに潜り込む。それにしても今日はよく走った。高速ばかり500kmも走ったのだから、距離が出るのは当たり前だ。
メモをつけながら水分を補給しつつ、明日の予定を考えて就寝した。
本日の走行 560km
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