北海道最東端にて
夜中に風雨の音で目が覚めた。天気予報では低気圧は夜のうちに過ぎ去り、翌朝には天候が回復すると伝えていたので、「降るなら今のうちに降ってくれ」と楽観視していた。ところが、7時過ぎに起床したところまだ雨が降っており、風も強い。仕方ないので風雨が収束するまでライハでウダウダする。ところで、このライハにはネット環境が整えられているので、当ページの書き込みをチェックしておく。するとご常連の方々から激励のメッセージが入電していたので、こちらからも近況をライブリポートとして返事を入れておく。また、せっかくなので、気象庁のページなどで雨雲の動きを確認したり、残り日程の天気図や予報を見たりして作戦を練る材料を仕入れておく。
ん、ネット関係のチェックをしていると、A4の4分の1程の大きさの紙に穴が開けられて吊るされていることに気が付いた。何じゃコリャ、と一枚引きちぎってみると、なんとアルバイト募集の広告であった。飯と寝床付で秋鮭の加工、いくらの製造とある。へぇ〜こんな仕事もあるのか。昆布干しや畑作業は聞いたことがあるが、鮭の加工は初めてだ。特に多くを望まないのであればこういう生き方もアリかなと思ったが、当然管理人に務まるはずもないと思い直した。
ウダウダしていると、10時過ぎにはだんだんと路面が乾いてきた。しかし霧がひどく、視界は悪い。まあ雨が止めばそれでよいということで、霧対策のカッパを着てインディアンサマー・カンパニーを出発する準備を開始する。また、管理人と同じく天候待ちの人たちも出発準備を始められた。ところで、昨晩強い酒を1L近く飲んで撃沈した千葉県のチバさんは、何事もなかったようにバハ号に荷物を搭載している。彼は浅めのプラスティック製のボックスをリアキャリアに二段積みしている。なるほど、リアキャリアに積載することが常識なのだな。リアシートはなるべくライダーのために空けておくことが望ましいようだ。
出発前の光景
(右は千葉県出身のチバさん)
霧か霧雨かわからないが、水滴が飛んでくる道道35号線をheading090で最東端へ機首を向ける。しばらく走行するとお母婆というライダーハウスがあった。ここも0円マップに掲載されていたな。ところで読み方がわからない。調べておく必要がありそうだ。
ところで、今日やるべく最初のことは、現金の入手だ。そのため、根室半島の歯舞地区の郵便局へ立ち寄る。郵便局のよいところはこういう最果ての地にも存在することで、ツーリング中の金銭管理に重宝している。
中に入ると、2名の局員が業務についており、先輩が新入社員にいろいろとアドバイスしながら処理をしているのが見えた。
歯舞郵便局にて
その種の事にまつわる話を、ひとつ思い出した。管理人が通う近所の床屋は、美容院と半々で業務を行っている。その訳は、若旦那が両方の免許を取得しているからであるが、ある日管理人は「どう見ても似合いそうにない女性が、エビちゃんみたいにしてくださいと注文してきたらどう思われますか」と質問したことがある。すると若旦那は「いや、全く気にしないでお客さんの注文を尊重しますよ」とのことであった。上記の局員も結局大して気にしていないかもしれないと思われた。
再び走行を再開する。この歯舞の町並みはいかにも最果ての漁村という趣で、ついに来たなという感情が盛り上がってきた。しかも風が強く、霧も出ている。さらに車輪を進め、街を抜けると道路両側が原野になった。右手はその向こうに海が煙って見えている。そして、納沙布岬が近くなるにつれて、風も強くなってくる。雨は遠くから風に運ばれてくるような霧雨だ。さらに北方領土返還の看板も立っている。今回も不発かぁ。摩周湖は全戦全勝だが、納沙布岬は3戦2敗1引き分けと成績が悪い。一度爽快に晴れ渡った霧多布にキャンプして、快晴の納沙布岬に立ってみたい。またまた宿題ができた。
最東端まであと数キロの地点にて
(右に北方領土返還の看板が見える)
遠くになにやら高い塔がみえてきた。平和の塔と呼ばれているが、最上部付近にアンテナをたくさんつけているので、監視塔の役目をしているようだ。この他にも根室半島ではたくさんのパラボラアンテナを見かけるので、この海域は監視が厳しいようである。ところで、この塔は1987年に完成しているようなので、15年前にも見ているはずだが全く記憶にない。そう思っていると、道道を外れて岬へ入る道が現れた。そういえば、こんな感じだったかな、と思い、岬へ向かう。木製の看板が立つ岬の駐車場へ入っていくと、遮るものがないせいか、やけに風が強い。しかし、雨は上がり、ほとんど降っていなくなった。
幸いにも荒天のおかげであまり込み合っていないので、さっさとバイクを立て看板脇に寄せて写真を撮影する。くどいようだが、15年振りの最東端はちょっと感激した。この15年いろいろあったものなぁ。そういう辛かった出来事がいろいろと思い出されてきたが、ボーっと突っ立ってるわけにもいかない。TDMを少し離れた建物の側にあるコンクリートがうってある場所へ移動する。
15年ぶりにこの地へ立つ
風に吹かれながら帽子を被り、お目当ての鈴木食堂へ向かう。こちらは灯台側にあり、ライダーハウスもやっている。晴れていれば北海道で一番早い時刻の日の出が見られるのもこの場所だ。因みに日本の領土で一番東にあるのは南鳥島で、日本で一番早く夜が明ける場所である。これは意外に知られていないというか、管理人は最近まで知らなかった。日本の最東端は納沙布岬ではなく、南鳥島であった。
ともかく寒いので、食堂へ入店する。店内にはストーブが焚かれているが、気温が10度そこそこと思われるので、妥当な処置と言える。店内には先客がいるが、この方達はインディアンサマーで同宿の歳の差夫婦であった。挨拶をして、席に着く。ところで、ここのお目当ては「さんま丼」である。さんまの刺身は流通ルートが良くなったのか、ここ10年くらいで地元でも食べることができるようになった。しかし、やはり本場で食べてみたい。さんまおおよそ7月からが漁期が始まるそうで、今からが旬だ。また、一応店内のお品書き札を見てみると、いろいろと旨そうなものも用意されている。カニ刺しや焼きホタテなども食べたいが、やはりここはカニ汁付きのサンマ丼セットで決めることにした。
鈴木食堂
料理を待っている間窓から外を眺めてみるが、波打ち際の少し向こう側までしか見通しが利かない。水晶島などの歯舞諸島は見ることができずであり、15年前のパート1と同様である。もっともパート2もそれほど天気が良かったわけでもない。ここでまた15年の時空をさまよってみる。あの歳1994年に生まれた従兄の子供は今や中学3年で、この夏休みは最後の部活だそうだ。そりゃ当方も歳をとるわけだ。
そうこうしていると、さんま丼がやってきた。この量から考えると丸ごと1匹分は使用していると推測される。また丼の中心にはカニのハラコが添えてある。まずはさんまを頂くが、このトロトロの油が乗ったとろけるような食感、しょうが醤油に漬け込んだサンマ特有の味、いやたまりませんな。次にご飯とさんまを一緒にかきこんでみる。いや〜こうして食べることができること自体が幸せだ。ついでにカニのハラコはプチプチの食感で華を添えている。次にカニ汁だが、こちらはあまり身が入っていないせいか、出汁もイマイチだ。まあつけあわせ的なものなので、こんなものだろうか。こんな風に至福の時を過ごしていると、天気は悪いが北海道最東端にはるばる来た甲斐があったというものだ。
鈴木食堂のさんま丼
(真ん中の小皿は貝のひもの煮物)
あまりの旨さに一気に丼を食べてしまったので、少々苦しい。お茶を飲みつつ一服していく。そうすると、歳の差夫婦のお二人はお先にと網走方面へ向けて出発された。当方も岬探訪と洒落こみたいが、まずはお会計をしつつ、本州最東端の証明書を100円で購入する。
最東端の証明書
また、店を出る際に北方領土返還と書かれたフラッグをもらう。本当はこの種の旗は掲げたくないのだが、受け取りを断る機会を逃してしまったので、この後この旗はザックで眠ることになった。
さて、まずは灯台に行こう。中に入ることができるわけでもないので、遠くから見て写真を撮る。
納沙布岬灯台
(本来ならこの先に歯舞諸島が見える)
その後はカモメが向かい風を捕らえて、羽ばたかずにその場にとどまっているところを見つつ、北方領土館へ行ってみる。中には4島返還を求める署名が置いてあるが、当方は政治的にはあまり関わりたくないので素通りしておく。もっとも、元々住人であった方々は返還を希望していることは理解できるが。
建物2階は4島について様々な解説がされており、またそこに生息する動物や魚などの剥製や模型が展示されている。実に様々な生物がいるのだなぁと感心してしまう。特にタラや昆布などの海産資源はかなり豊富なようだ。また、北方4島が日本の領土だということが明記されている書類のレプリカ?も展示されている。それによると、日露の間では領土問題で度々衝突があったので、1855年2月7日に日露通好条約で択捉島とウルップ島の間が両国の国境となり、この条約が制定された2月7日が北方領土の日というわけだ。蛇足ながら、その後千島樺太交換条約で千島列島の18島が日本の領土なったが、結局気候が予想外に厳しく、4島以外に開拓が成功しなかったそうである。しかし通好条約以後、書類上一貫して4島は日本の領土であるから4島返還を要求しているということであった。
北方領土館2Fの様子
いろいろと複雑な問題があるようで、当方にはよくわかない。一応事実はそういうことのようだ。さて、この北方領土館の横には返還を願う火とアーチ状のモニュメントがある。こちらは15年前からあるもので、記憶にもある。窓から覗いてその姿を確認しておいた。また、晴れていればここからも当然北方領土の島が見えるのであるが、今回は館内に掲示してある写真でのみ確認した。
15年ぶりの最東端に後ろ髪を引かれつつ、西へ向けて出発する。相変わらず風が強い。しかも北側からの風なので、根室半島を一周しないで元来た道を戻ることにする。同じ道を1日に2回通行することは本意でないが、今日はそんなことを言っている余裕がない。横風にあおられながらフラフラと根室へ向けて走行していく。
今朝出発したライハの前を通り、国道44号線に乗り換えて半島を抜け、引き続きheading270で車輪を進める。お、道路横の湿原にタンチョウの姿が。やはりでかい。惜しいが、横目で見るだけで通過する。さて、本当は国道の南側の道道142号線を通りたいが、霧がひどく景色は期待できないので、このまま国道を走ることにした。しかし、昨日査察に遭った厚床を過ぎると少しずつ天候が回復してきた。さらに霧多布の地名が書かれた看板が出てきたので、これならば寄っていく価値もあろうと針路を180へ変更して、道道123号線を進んでいく。さらに霧多布の市街でさらに道道1036号線に乗り換えて、丘を上っていく。晴れていれば相当に良い景観が楽しめるだろうと想像されるので非常に悔しい。
丘の向こうには霧多布キャンプ場が見えてきた。ここも天気さえよければかなり良いキャンプ場だろう。今日はキャンピングカー1台とバイクが1台停まっているのみだ。テントは放置されていると思われる、潰れかけたものが1張りあるだけなので、宿泊者はバンガローに移動しているのであろう。さて、駐車場にTDM を停めてから灯台に方へ歩いていく。ここも15年振りなのでよく覚えていないのだが、こんな感じだっただろうか。
灯台の向こうにはさらに岬の先端まで続く道がある。そしてその途中には看板が立っており、これを見た途端に昔の記憶が蘇ってきた。ああ、これみたことあるよ。覚えてる。そうそう、霧で真っ白な所を歩いていったっけ。時々記憶が押し寄せてくるという表現を見かけるが、本当に海の波の如く15年前の記憶が蘇ってきた。そうしてこの看板の前では立ち止まって、しばし海を眺めた。その後は灯台の北側の断崖にいる海鳥を見たりして楽しんだわけで、そうこうしているうちに天候の回復も進んできた。西へ向かっているわけであるからね。ところで、15年前は霧が出るとブォーと大きな音で霧笛がなっていたが、最近はレーダーが発達したので止めになったのであろうか。
灯台へと続く道 岬の看板
霧多布市街でセイコマに入り、水分補給をしながら地図を確認していると天候も回復して青空も覗いてきたので、気分も上向きだ。北海道の青空は本当に青いので、ますます嬉しくなるではないか。いい気分で道道123号線の走行を続けていくと、前方から一台のアメリカンタイプのバイクがやってきた。手を挙げて挨拶するが、なんと比布で同宿だった九州のオジサンでした。世の中狭いですなぁ。ところで、このあたりは海沿いが絶壁になっていたりしており、面白い形の岩などが点在する。また、蛇行した川と湿原も多々存在する。この中で一番大きいものが釧路湿原というわけであろう。この湿原が結構侮れなくて、キラキラと光る水面、まったくもって透き通っている水、そして鮮やかな黄緑色の草、ちょっと本州ではみられない。丁度この近所に琵琶瀬展望台というものがあったが、横目で見ただけで通過してしまった。この辺り全体が湿原になっているので、わざわざ止まることもなかろうと思ったわけである。さらに、ロウソク岩、立岩、涙岩などを横目に通過して厚岸に到達する。ここで道道123号線は終了するのであるが、15年前に宿泊した築紫恋キャンプ場もここ厚岸にある。帰宅後に当時使用していた地図を見ると、「感じが悪い」とのコメントが記されていた。何か気に障ることでも言われたのであろうか。
そして厚岸を締めくくったものは赤く塗られた海上橋である。上記キャンプ場に宿泊した際、丁度日没時に到着したので、この海上橋で真っ赤な空を見た覚えがある。当然の如く翌日は雨だった・・・。
ここからは時間との勝負である。というのも、明日は西ほど天気が良いと予報がでている。つまりはできるだけ西に進んでおきたいからだ。さらにそうしておけば、本日を除いた残り2日の日程にも余裕が生まれようというものだ。というものの、早速厚岸の市街地で珍しくも渋滞にはまってしまった。そしてこの後国道44号線をさらに西進して、釧路の街へ入ってきた。ここも15年前に和商市場へ行ったり、雨が降ってきたのでライダーハウスに宿泊したりした場所だ。今回は通過のみでheading270を継続する。そして街を離れると、道の駅白糠恋問の看板が見えたので休息をとることにした。
ここは比較的新しい道の駅なのかな。少なくとも1994年には存在していなかったし、道の駅と言う概念もなかったのかもしれない。それはそうと、駐車場は海岸線までかなり接近しており、その隣にある芝生の広場には船のイカリと白糠恋問と書かれた看板がある。また、遠くに釧路の街と襟裳岬方面が見える。道路はもちろんまっすぐだ。そして、時折ここから数km離れた釧路空港を離陸する旅客機が、ちょっと東よりの頭上を通過していく。ボーイング737クラスがメインだろうか。
白糠恋問にて
件のイカリと看板前で写真を撮り、今夜の寝床を検討する。先ほどは青空も見えていたが、また雨が降りそうな鉛色の雲が垂れ込めてきた。うー、仕方ない、今晩もライダーハウスにするか。マップルで検索すると、釧路には何件かあるようだ。しかしできるだけ西へ進みたいので、直別のミッキーハウスかM&Pに宿泊することとした。ところで、地図を見ていて驚いたことがあった。我々は釧路と言うが、厳密には釧路市と釧路町が存在して、隣接している。我々が一般に釧路と呼んでいる場所は釧路郡釧路町であり、今から向かうライダーハウスがある直別は釧路市の区域だ。北海道は4回目だが、まったく気に留めていなかった。
とりあえずライハを見てから最終決断をしようと考えたので、25kmほどある直別まで移動する。釧路町から国道39号線に名称を変えた道で西進を続行する。それにしてもこの道沿いは本当に何にもない湿原ばかりだ。それだけ生き物も豊富に生息しているということなんだろうな。そうして直別の駅を越えて少し行ったところに三角屋根の赤いドライブインが見えてきた。これがミッキーハウスであるが、もう一つのM&Pは??隣にあるこの倉庫のような廃墟か。こうなると選択の余地はないので、ミッキーに連絡を入れる。宿泊OKということで少し時間をおいて伺った。
ミッキーハウス着
ライハの入り口がわからないので、三角屋根の所にあるレストラン入り口に入って「ごめんくだい」と数回声をかけたところで、経営者のおばさんが登場した。「宿泊の連絡をしたものですが」と申し出ると、「隣の戸口から部屋に入ってください」とめんどくさそうに奥に下がっていかれた。当方は一度表に出て、右手奥にある通常の家にあるような玄関から中に入っていく。すると中も普通の家のようになっており、そこに4部屋ほどが用意されていた。また、その玄関には旅館業の許可証も提示してある。飲食店を経営しているので、衛生管理等は共通項目なのであろう。
「今日はもう一人来ますので、2名でこの部屋を使用してください」と相変わらずやや無愛想に言われたので、
「はい、わかりました」と返事した。また、
「風呂はお湯を湯船にはった方がよいですよねぇ」と尋ねられたので、
「その方があり難いです」と本音を答えたが、「本当はメンドクサイのでシャワーで我慢して欲しかった」というニュアンスが読み取れたので、少々悪いことをしたかと思ってしまった。そうして荷物をバイクから降ろして部屋に入れていると「キャンプの道具も降ろしたの?」と聞かれたので「ハイ、用心のために」と本心を答えておいた。
「食事とお風呂どちらを先にしますか」とちょっとお客として扱われてきたので、食事を先にお願いした。
時間をおいて、最初に伺ったレストランに行きメニューを見る。するとジンギスカンが用意されていたのでこれをご飯大盛り(100円プラス)で注文した。すると、おばさんはテキパキと厨房で用意をし始め、結構な力で肉にタレを揉み込んだりしていたようだった。
すると、家族3人のお客がやってきて、それぞれがいつも食べていると思われるものを注文していた。そして、「どこから来たの?」と聞かれたので、「名古屋です」と会話が始まった。さらに面白いことに、そのお客さん一家の奥方が当方にお茶を出してくれた。「????」であったが、それだけこの店のご常連ということなのだろう。また、経営者の母親と思われる方も出てこられて、皆で会話を楽しんだ。経営者も60歳を越えていると思われるので、今風に言うと老老介護ということになろうか。もっともその方は歳相応に元気でおられるので、それほど深刻ではないようだ。しかし、このライハもそう遠くない将来には役目を終えるかもしれないな思われた。
ところで、上記のお客さんは近所で酪農をされていると話していたので、酪農の現場を知りたい管理人は牧草の確保や日々の業務などについて質問をしてみた。すると、その昔は家族総出で刈り取り、乾燥をしていた牧草は、今や専門の会社があり、そこに注文するそうだ。また、日々の業務は牛の世話、搾乳がメインらしい。
すると、「やる気があるの?」とスカウトされそうになったので、「日本の酪農の実態を知りたいだけです」と答えておいたし、それが事実だ。その酪農のご主人は、後継者不足で離農する人も結構いるということで、新規に始める人を農協などと一緒に指導しているということだった。その詳細をさらに尋ねてみると、離農した人の資産をそのまま農協が買い取り、それを斡旋するというものだった。結局借金だけが残り、やはり離農する人も結構いるらしいが、そういうことでは農協、ひいては日本の酪農自体の損害になるので、かなり丁寧に面倒をみてくれるということであった。最近では、営林署を辞めて酪農を始めた人がいて、「やった分だけあらゆる意味で成果が出るので楽しい」と言わせるところまできたそうだ。逆を言うと、手を抜けばその分確実にツケが回ってくることになる。楽な仕事なんてないわけだね。因みに就農に年齢制限はないが、だいたい40歳くらいまでの人が望ましいということだった。
ところで、牛だって生き物だから病気したりするわけだが、そういう時は大損ではないのですかと尋ねたら、牛には生命保険と健康保険がセットになったような医療制度があるそうで、死亡した場合はその牛の評価額の60%程の保険金が下りるそうだ。60%って結構厳しいなぁと即座に反応してしまった管理人であるが、実際その通りらしい。牛は牛乳を出してその牛乳を出荷してお金を得るわけだが、実際には牛の購入金額やら、育成費用、日々の牧草代などの経費をまかない、その上で儲けが出るようにしなければならないわけだ。60%なんて大赤字だぜ。
その酪農のおじさんは結構なやり手のようで、牛舎を増床中だそうだ。そしてまた、「何かあったら連絡してきてよ」と再び勧誘された。後継者不足はなかなか深刻なようだ。
それはそうと、ジンギスカンであるが、こちらのものも大当たりで旨い。タレはしょうゆとごま油、にんにくが効かせてあり、ネギと一緒に肉に揉み込んである。量も通常で言えば2人前くらいだ。これで味噌汁付きで、ご飯大盛りプラス100円=1000円はかなりのお値打ち価格である。味も全くクセはなく、柔らかい。豚の味がしないフィレ肉のような食感だ。これをロースターでジュウジュウ焼きながら食べるとまさに絶品。ネギとにんにくが火にあぶられることで、香ばしさも付加されているようだ。ここのジンギスカンはお薦めである。
そうこうしていると、今日のもう一人の宿泊者が到着した。驚いたことに、同じ名古屋圏に住むCBR929に乗る方であった。その方もジンギスカンを注文していた。するとおもむろに「今日鈴木食堂に見えましたよね」と聞かれた。その通りだよ、ヤマトの諸君ではないが、「確かに」と答えた。そういえば、昼飯を食べている時に一人入店してきた人がいたっけ。ああ、あの方ですか。風か強くて大変でしたとお互いの再会に驚いたわけだが、よくよく考えてみればそれほど不思議なことでもない。同じ地図を持って、同じ手段で移動して、同じような日程で滞在している、同じ宿に泊まることがあっても当然だろう。
部屋に戻る時に風呂が沸いているから入ってくれと言われ、案内された場所は台所の横にある風呂であった。アトホームというか、ちょっとビックリ。ライダーハウスは善意とよく言われるが、それを実感させていただきました。
風呂から上がって、洗濯機と乾燥機のある廊下に写真が展示してあることに気がついた。どうやら20年くらい前のミッキーハウスを撮影したもののようで、6,7人のライダーと若かりしころの経営者、そしてご主人と思われる人々が心底楽しそうな顔で写っている。北海道が今よりもライダーで賑わっていた時代のものと思われる。介護とライダーの減少、ここの経営者もかなりキツイのだろうと想像された。
ライハの廊下 宿泊部屋の様子
(80年代を思わせるポスターに注目) (布団付きで1800円)
さて、CBR氏に「続いて風呂に入るとよいですよ」と伝える頃にもう一人、BMWに乗る方がこのライハに滑り込んできた。本当は1部屋3人の計算だが、今日は空いているのでその方は別の部屋で一人になったようだ。一方管理人の部屋であるが、CBR氏は極めて常識的なライダーであったので、全く不快なことはなかった。むしろこちらが恐縮してしまうくらいで、情報をいろいろと聞かせて欲しいと頼まれてしまった。こちらも教えるようなものは何もないが、今までの北海道体験に基づいて情報を提供させてもらった。
また、詳しくは聞かなかったが、CBR氏は勤め先から推測するに、管理人とそれほど遠くない場所に住んでおられるようであった。日程は4泊とやや短めで、明日帰還予定とのこと。今年は天気が幾分悪かったので残念だったと感想を述べておられた。
そうこうしているうちに眠くなってきたので、先に失礼するよと布団に入ったが、CBR氏も気を遣って同じ時間に就寝された。なんか悪いことをしたな。
本日の走行 290km